なぜ京都の伏見稲荷大社で見る千本鳥居は人の業で作られたのか?
僕の尊敬するてつや氏のブログで興味深いエントリーがあった。
京都の伏見稲荷大社で見る千本鳥居は人の業で作られた何か - タコの卵
本来神社や仏閣は神聖なものであるべきだ。
それがなぜ人の業によって支配されているのか?
いや、支配されているように見えるのか?
てつや氏が日本中の神社を燃やしてしまう前に、ぜひ僕から一つ考え方を紹介しておきたい。
現在のように科学も医学も発達していなかった古代の人々にとって、自然や病や死といったものは、無秩序で混沌としたわけの分からないものであったに違いない。そこで古代の人々は、積極的に意味や名前や形を与えて意味付けしそれらをなんとか理解し克服ようとしたのだ。つまり、人が精神的に征服した(意味や名前を与えて理解した)ことの証として神社仏閣が建てられたのである。
つまり何が言いたいかというと、神社仏閣を建設するとことは、自然界の”わけの分からないもの”を人間の行為に置き換えていく作業であり、非常に即物的であり人間の業そのものであるのだ。
例えば神社を祀る「信仰」は曖昧で抽象的な概念である。それだけではよく分からないフワフワしたものであるが、それをお金と鳥居という物を通して形と名前と意味を付加することによって、その存在を証明することが出来るのだ。
神社仏閣は意味付けを行う場所なのだ。
それがどういうわけだか現在では意味がやや変わっているように見える。神社仏閣は即物的で属人的なものではなく、穢れ無きもの、神聖なものとして見られるようになっているのである。
なぜか?
恐らくそれは科学や医学の発達によって意味や名前や形を与えることによって意味付けし理解し克服するというプロセスがもはやあまり必要ではなくなってしまっているからだと思う。
”あまり”と書いたのは、現代においても、"わけの分からないもの"に対して、積極的に意味付けをしていく行為が全く必要で無くなったわけではないからだ。
なぜかといえば、科学でも分からないことはあるし、戦争はおこるし、人は死ぬからである。この意味に置いては、古代から受け継がれている神社仏閣の意味というの変わってはいない。
だって結婚式や葬式は神社や寺でいまだにやるでしょ?
しかしこういった積極的な意味付けの行為以上に現代人が求めるものは、
「“わけの分からない物を恐れて敬う”という精神が今も存在することを確かめること」である。
いわば積極的な意味付け行為に対して“消極的な行為”なのだ。
それは現代人が日頃からすでに意味づけられた物に囲まれまくって生活しているために、積極的に事物に意味付けをする作業をしなくても生きていけるからである。
このような“消極的な行為”にを求める人にとって神社仏閣を訪れる行為は、“わけの分からない物を恐れて敬う”という精神の存在を感じられればよいのであって、具体的に鳥居を寄贈したりして意味付けをする行為そのものは重要ではない。
神社仏閣は人間の精神の象徴なのである。
・神社仏閣=意味付け
・神社仏閣=象徴
この2つは起こりは一緒であるが、求められる実際の姿には違いがある。
この齟齬がてつや氏の感じた俗っぽのような違和感を生んでいるのではないだろうか。
つまり
神社仏閣=意味付けと捉える人にとっては、神社に鳥居を寄贈するという行為、儀式を通して、実際に意味付けを行うことが重要なのであるが
神社仏閣=象徴と捉える人にとっては、より人間の精神性を感じさせてくれる神聖さが必要なのであって、意味や物にあふれた現実社会においてわずかでも“わけの分からない物”そのものを感じさせてくれる空間を鳥居に求める、ということだ。
だからてつや氏が人の名前の入った鳥居を見てそれを燃やしたくなったのはある意味自然なことなんだと思う。なぜならそれは"わけの分からないもの"がかつてそこにあったという抜け殻みたいなもので、わけの分からないものそれ自体じゃ無いからである。
更に言えば、那覇という都会(決して皮肉ではない)に住むということは、積極的意味付けを必要としない生活を送れると同時に、沖縄という島全体で見るならば、ちょっと歩けば透き通った綺麗な海があり、東京や大阪に比べれば遥かに自然の神秘や不思議といった“わけの分からなさ”の片鱗を感じることが出来るという絶妙な空間に生活するからこそ、様式化され儀式化された京都の文化を見るときに強い違和感として現れるのではないだろうか?