究極を選択しない努力をするべき
映画『ウォッチメン』(2009年)を鑑賞した。
ネットラジオ BS@もてもてラジ袋 | IT時代をサバイブする新型教養番組
にて何かと比較の対象として持ち出される映画である。
まだ映画を見ていない人、もてラジの過去放送を聞いていない人は是非両方、もしくはどちらかを購入して今すぐに見るべきである。
あなたの月曜日が今までの10倍面白くなることを保証する。
さて『ウォッチメン』である。
僕はこの映画を見てもやもやとして、なにかスッキリとしない感覚に陥った。
なぜだろうと、もてラジの旅話の記事を読みながら考えていたら、ひとつ思い当たることがあったので、ブログに書いてみようと思ったわけだ。
ちなみにネタバレ全開である。
映画の最後、対立した米ソは核戦争寸前というところまで緊張が高まる。この危機を回避するためヒーローの一人が特殊能力を利用して世界中で大量虐殺を行なう。世界はヒーローに対して共同戦線を張ることで団結、核戦争は回避されるという話だ。
ヒーローは自ら悪(ヴィレン)となることで世界を救うのである。
あぁまた、このタイプの問題かぁ、と既視感を覚えた。
そう「少数を犠牲にして多数を助けるか」問題である。
もてラジファンならばちょっと前に流行ったこの画像を覚えているだろう。
この際、大柄差別問題は置いておこう。
映画の話に置き換えると、この楳図かずおファッションのガキが虐殺を行ったヒーローで、大柄が人類の少数、線路上にいるのが人類の多数だ。
映画の状況を正しく再現するなら大柄も線路上にいなければおかしいが、そこは目をつぶって欲しい。
先ず僕が問題だと思うのは、この楳図かずおファッションのガキ=ヒーローが線路上にいないということだ。分かりやすく言えば、ヒーローは電車が突っ込んでこようと、核戦争が起ころうとも生き延びる可能性が高い立場にあるということだ。
こんな限定され、優遇された立場の人間に一方的に生き死にを決めてもらいたくはない、というのが僕の主張である。
「お前らが死んだ後で俺は残された人生を罪の意識に苛まれながら生きるよ・・・」としゅんとした顔で言われても絶対に納得は行かないはずだ。
次の問題として、というかこっちの方が重大なのだが。
なんでそもそも核戦争が起きるのかという問題だ。
核戦争とは人類が「なりふり構わず生きる」るということを文字通り、なりふり構わず行った結果起こるものであると僕は思う。その核戦争を止めるためには更になりふり構わない大きな犠牲が必要になるのは当たり前の話ではないだろうか。
そうやって犠牲者の規模をどんどん大きくしてきたのが人類の戦争の歴史であるし、その到達点が人類の大多数を故意に虐殺することだったとしても別に驚くことではない。
つまりこういうことだ。
多数を故意に抹殺することで核戦争を止めるというアイディアは、核戦争に至るまでに事態をエスカレートさせてきたアイディアと発想がまったく同じであるということだ。
人類が「なりふり構わず生きる」という選択肢を止めなければ確実に戦争は起こるのだ。
もちろんこれに反論があるのは重々承知である。
実際自分の生と死を天秤にかけて、自分の死や愛する人の死を選択できる人はいないだろう。「自分だけは」と思うのは人間の本性の一つであり、それを妨げるのは人間性の否定であるという意見があるのも理解できる。
どんな手段を用いても生き残る、という生命のしぶとさが無ければ人間は自然界で生き残ってこれなかったかもしれない。
こういった議論は現実の世界でも度々見受けられる。
よく耳にするのが
「あなたの手には銃が握られている。」
「突然あなたの家に他国の兵が攻めてきて、あなたの家族をレイプし殺したらたらどうするか?」
大概はその後に
「まともな人間だったら、戦うことを選ぶよね」
と続き、武力に対して武力で反撃することを肯定する喩えとして使われる。
なぜ究極の状態ばかり想定するのか?
以前から僕は疑問を持っている。
究極の選択肢をしなければならない時点ですでに終わり、負けではないのだろうか?
『ウォッチメン』には様々なタイプのヒーローが登場する。少数を殺し大勢を助ける選択をするヒーロー、傍観するヒーロー、全てに背を向けて達観するヒーロー、少数を殺し大勢を助ける選択を否定するヒーロー。
ただしもう一つ、描かれていないヒーローがある。
それは核戦争を止めるヒーローだ。
つまり多数か少数かという究極の選択肢を取らなくてもいいようにするために戦うヒーローの存在である。
僕は以前、当ブログでアンパンマンが一番好きなヒーロと書いた。
アンパンマンとベイマックスの決定的な差 - あたまがいっぱい
僕がこうもアンパンマンを推すのは、彼が
「究極の選択肢を取らなくてもいいようにするために戦うヒーロー」
であるからだ。
昔からヒーロー物と言えば、暴力に暴力でしか対抗できない無能なヒーローか、多数を取って少数を殺すダーク・ヒーローか、自ら犠牲となって散る無謀な野郎か、そんな奴らばっかりでまったく余裕が感じられない。そんな究極の状態陥らないように戦うヒーローの存在については全く語られないのが世の中である。
確かに現実には厳しく不条理な決断を下さねばならない状況はたくさんある。
管理職になれば厳しいことを部下に言ったり、厳しい目で他人に評価されたり、その結果生活が大きく影響を受けることもあるだろう。
そんな中で究極の選択を取るヒーローの姿は自分の問題を小さく見せてくれる力強い存在かもしれない。
しかし、忘れてほしくないのはその状況は最悪の状態ではない、ということだ。
むしろ最悪の選択を回避した状態である。
映画のヒーローのようにバッサバッサと襲い来る脅威に暴力で対処するのは自ら最悪の状態を招き入れるようなものだ。
皆がヒーローなんてことを言うつもりは全くないが、アンパンマンのように少しづつ自らの身を削って、僅かであはあるが相手の空腹を満たし、少しでも最悪の事態を回避するように務めるヒーローこそが本当のヒーローであると僕は思う。
言ってしまえば人間皆死ぬのである。
死という究極の状態は常にそこにあるのだから、死に直面した時にどうするかを必死に考えて、軍隊を持ち、核兵器を作り、究極の状態に陥った時の被害を拡大させるより、日頃から少しでも最悪の事態を回避することに力を使いたいものだ。
アンパンマンは君なのである。
ー追記ー
どうもしゃらくさいオチになってしまったので、憂さ晴らしに一つ映画を紹介したい。
『エスケープ・フロム・L.A.』(1996)
パッケージからそのヤバさ十分伝わると思う。
なんたって僕らのカート・ラッセルさんである。
ビールとポップコーン片手に見れば、ウォッチメンの悶々として気分も吹き飛ぶこと請け合いだろう。