言論の自由とは何だったのか
せっかくなのでこの機会に言論の自由について振り返ってみたいと思う。
ネットのニュースやブログ等を見る限り、どうやら世の中には無責任に言いたいことを言って誰かを傷つけても、言論の自由があるから、どんな発言でも認められると思っている人がいるらしい。
あまり褒められたことではないと思う。
これに対し、相手を傷つける発言はどんな内容であっても許されない、と言ったとする。
しかしこれは矛盾したアイディアだ。
どんなにもっともらし主張であっても「傷付いた!」と言われてしまったら口をつぐむか、徹底抗戦するしかなくなってしまう。
これでは誰も何も言えなくなってしまい、結果的に言論の自由は守られなくなってしまうのじゃないか?
ということは「相手を傷つける発言はどんな内容であっても許されない」という理屈は実は違うんじゃないかということになる。
では具体な「条件」とは何であろうか?
ちょっと昔に戻って、言論の自由の認められない社会を想像してみたいと思う。
例えば江戸時代、政治に対して意見を述べることは厳しく禁じられていたそうだ。噂話をしただけで刑罰の対象になったという話も聞く。
このような歴史を見る限り、言論の自由とは、国民同士がお互いの意見を縛るという意味ではなく、国家が国民の意見を縛ることを禁止する法であると言える。
平たく言えば、国家権力が国民の自由を束縛することを防ぐ法として言論の自由があるのだ。
じゃあ言いたい放題、やりたい放題なのか?
実は日本においてはそうなのだ。
日本においては、障害者に対する差別を禁止する法律がある。また雇用に対しても差別が禁止されている。
しかし、言論に対して差別を禁止する法律は存在しないのだ。
もちろん名誉毀損ということで、相手の動きを間接的に封じることはできるが、言論の内容に対して、それが差別かどうかを精査するような法律は無いのである。
つまり、言ったもの勝ち、メディア権力最強状態なのだ。
テレビや新聞で事実無根のことでこき下ろされても、暴力で報復したが最後、傷害罪で記事告訴、人生終了である。
なんということだ。
マスコミはやりたい放題なのか?
じゃぁ政府にお願いしてマスコミを規制する法律を作ってもらおう。
いや、ダメだ。
政府は国民の言論を統制してはならないのだ。
2014年、国連の人種差別撤廃委員会の勧告の中で、日本政府に対して差別を禁止する法律を作るように要請が成された。
これまでの日本では、何を言っても許されてきた。
それはあくまでも国民が言っていいこといけないことの区別を自主的につけることができるという前提の基に成り立っている。
今回の勧告ではこの前提に国連からケチが付いたということだ。
誤解の無いように言っておくと、これは何でもかんでも規制すればいいと言う意味ではない。
あくまでも差別に対して規制をしろという意味である。
じゃぁ日本人に差別とそうでないものの区別が付けられるのか?
「表現者に対する弾圧」 ろくでなし子被告起訴で抗議:朝日新聞デジタル
こんなニュースを目にすると出来る気がしない。
そもそも日本人は規制に対して、差別がどうとかいう基準ではなく、人から見られて恥ずかしくないかどうかという基準で物事を見ている気がする。
「女性器のアートを展示するのは恥ずかしいからダメ!」
「外国人を大声で罵るのは恥ずかしくないからイイ!」
さすがサムライの国、恥の文化というやつだ。
正直僕には、このような日本の風土が良いものなのか悪いものなのかは分からない。
僕自身この風土の中で育ってきたからだ。
しかし現状を見るに民主主義の制度や、人権・言論の自由といった思想と反りがあっていないのは確かだと思う。