サイコパスの動く城
数年ぶりにハウルの動く城を見た。
最初に見た時は大学生で初見は全く意味が分からなかった。
愛か?愛なのか?
愛が地球を救うなんて何とかテレビみたいだ。
ファック!リア充爆発しろ!!
というのが当時の感想である。
金玉パンパンの童貞野郎にはここらが限界というわけだ。
賢者タイムを自由自在に操る(解脱した)身となった今では愚かしい限りである。
「不自然なものが自然に戻る」物語の始まりと終わりとで変わったものがあるとすれば、これである。
キムタクは心臓を取り戻し、ババアは適齢期に戻り、もう一人のババアはババアに戻った。おまけにカブはイケメンとなり、ついでに戦争も終わったのだ。
なぜ変わったのか?
「愛」の力で変わったのか?
賢者となった今思うことは愛は「結果」だったということだ。
そろそろ童貞野郎は脱落してきた頃だと思うが、話を続ける。
ソフィーの容姿の変化が彼女の心理によって変化するのは周知の通りである。
そして変化するキッカケは彼女が自分の意思で行動する時である。
「自分の意思で行動する」=「本来の年齢に戻る」メタファーなのだ。
自分の意思で行動するソフィーが直接物語上何か意味のある結果を生み出す描写は存在しない。むしろ逆で、城を破壊してしまったりもする。
ここがこの作品の非常にトリッキーなパートだ。
ソフィーが自分の意思で行動することで、なにか有益な結果がもたらされるわけではない、しかしそれによって物語がドライブして行く。
実際にそこに実利的な変化があった、例えばハウルが死を回避できたり、魔術が解けて元の体に戻れたり、戦争が終わったり、とかはどうでもよいことなのだ。
事実物語の終わりでは、そういったことはあまりにもご都合主義てきにあっけなく解決する。
それはつまり、インガオーホーで理屈立てて、これがこうなったから問題が解決したとかそんな事自体が物語の主題ではないことを意味するのだ。
重要なのは、そこに心の変化があったこと、つまりそこに自己の意思が介在し、それによって「不自然なものが自然に戻る」ということだ。
現実の問題として「不自然なものが自然に戻る」ことはいいことばかりではないだろう。物語では恋の成就として良きものとして描かれるが、それはあくまでも作者が「こうあってほし」という理想を作品に込めたと僕は思う。
改めてもう一度言うが、重要なのは主人公が本来の自分を取り戻した事によって、全てが整合性を持ったようにドライブして行くその様子自体である。パヤオはそれにあくまでもポジティブなイメージをのせつつ、同時にそれが現実にあり得ないことはご都合主義を被せることでストーリー全体が「とりあえず何でも主体的であれば現実は好転する」といったメッセージ性を上手くキャンセルしているのだと思う。
良い結果を生むか悪い結果を生むかは分からないが、本来の自分を取り戻すことによって物語が動き出し、混沌に意味が付与され、それ自体を肯定的に捉えていきたい…
そんなメッセージが電波として奥歯の奥の盗聴器にキャッチされてきたのだ。
なんか綺麗にまとめようとして失敗した感が否めないが、最後にサイコパスについて語って終わろう。
ハウルは心臓、つまり心をカルシファーに渡すことで力を得る。文字通り心ない人間になることで絶大なパワーを手にするのだ。
最強のサイコパスの誕生である。そして最強のサイコパスは戦場では無敵だ。
最強のサイコパスの行末は禍々しいものであることとして作中では描かれるが、それが本当に身の破滅をもたらすのかも曖昧なまま物語は終わる。現にサイコパスの親玉というべきサリマンは涼しい顔のままだ。
だからこれを読んでいるサイコパスの君も、特に物語の結末など気にせずガンガン自分を出していって欲しい。
あ、でもマジでサイコパスだったらここに書いてあることも分からないだろうからある意味そのままでもよいのかもね…。