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金持ち優先の社会に未来はあるのか?!

金持ち優先の社会は色々な所に影響を及ぼす。
温玉ブログでは首都圏中心社会からその様子を分析していた。


首都圏一極集中を良しとする論調にイライラ - 温玉ブログ

 
庶民に不便な行政サービス
地域格差  etc...
 
金持ち優先の政治が悪い、と言うとまるで肥え太った金持ちが政治家と結託していいように社会を動かすイメージだ。
 
もちろんそれもある。
 
しかし金持ちとは相対的なものだ。
同じ貧乏人でもホームレスとワーキングプアの間には差がある。もちろんサラリーマンにだって上下の差があるはずだ。
 
実は金持ち優先の社会とは、ちょっとずつ、すこしづつではあるが、相対的に貧乏な方が、相対的に金持ちな方に対して身の丈を合わせなくてはならない社会のことなのだ。
 
 
シャッター街の再生論を例にあげて見てみよう。
 
地元の商店街がシャッター街になっているのは商店の新陳代謝の低下して新しい店が入ってこないからだ、という主張である。
 
吉祥寺の中道通り商店会なんかは近くなのでよく行くのだがこの商店街の代謝は半端ない。
一年に2~3店舗の入れ替えは当たり前、雑誌に紹介されるような人気店もブームが終わればあっという間に撤退する…
洒落たイメージとは裏腹に熾烈な戦いが繰り広げられているようだ。
 
田舎の商店でこれをやるのは難しい。
 
一番の理由は商店が兼住宅になっていることが多いからだ。
地縁を捨てて住居を移し、空いた店舗を貸し出すという判断の出来る人は少なくない。
 
特に地方の生活においては地域の人間関係(ソーシャル・キャピタル)が生活の上で非常に重要だ。
 
生きて行く上で必要な商売を取るか、生きて行く生きて行く上で必要な地縁を守るか、という二律背反がそこにはあるのだ。
 
吉祥寺の商店街では道に面した建物の建て替えが進んでいる。
 
住宅兼商店を取り壊し、商業用の建物を建設する動きだ。
恐らく地縁を捨てて商売を取っても、その分値上がりした土地と商売による利益を秤にかければ、東京のように様々なサービスがお金で購入できる場所では有利に働くのだろう。
 
田舎ではそうは行かない。
 
仮に商売がうまく行っても、お金で買えるサービスの絶対量が少ない田舎では、都市部に比べて単価が高くなる上に利便性も大して向上しない。
地縁を利用してお互い助けあう方が全然楽だったりするのだ。
 
都市部と田舎の間には経済を含めた大きな生活様式の差があり、田舎の商店がこのギャップを乗り越えて都市部に合わせていくには大きなリスクを一方的に背負うしかないのだ。
 
政府は地縁に基づく日本の社会性を例に上げ、福祉、介護の分野で地域福祉と自助、互助、共助による福祉を推進している。
早い話が「政府は手を出さないので自分たちでいいように助けあってねって」という政策だ。
現在の日本では国家予算の一般歳出における社会保障関係費は50%を超えており、更なる拡大が見込まれている。
これに対して政府は公的サービスの縮小と民間サービスの導入を進めている。
一方では地域福祉の推進と題して、地域包括ケアシステムに代表されるような、地域住民が地縁に代わる仕組みを自らすすんで作り上げることへの後押しにはお金を出すという。
 
つまり「田舎は都市部の経済に合わせることは前提で、その結果足りなくなる社会保障福祉に対しては自助努力に関しては金を出すよ」ということである。
 
言い換えれば「貧乏人は金持ちのやり方に合わせろ」ということだ。
 
僕みたいな貧乏人の弱者から見れば、勝手に金を稼ぎまくって世の中を勝手に忙しくしておきながら、その結果生じた経済格差を貧乏人に押し付けるのは納得がいかない。
 
貧乏人だろうが金持ちだろうが、時代に合わせて変わっていくのが人間なのかもしれないが、それは経済的な発展が人間の生活にプラスになるという希望的観測が前提である。
 
仮にすべてが上手く行ったとしても、この結果生まれるのは経済的貧富の差のある社会だ。
国同士の経済格差や軍事力の差によって仕える者と統べる者が分離している世界である。
 
確かに当面の安定を考えればそういう国策がアリなのかもしれない。
しかしそんなものは行き詰まって先の見えたつまらない世界な気がするのは僕だけだろうか。
 
そんな政策に希望的観測を持てと言われてもなかなか難しいものである。
 
この先、皆が経済的に繁栄してウハウハになる未来は絶対に来ない。
それが分かっているのであれば、金持ち優先社会に見切りをつけて新しい次のステップへ向かえるように手を尽くす方がより希望が持てる明るい未来なんではなかろうか?
 
 
 
 
 
そんじゃーね!

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