自分のやりたいことを実現できるかは分からないが、少なくとも目指す努力を肯定できる世の中を目指そう。
こう書くと必ず誤解が生まれるので、先ずそれを潰しておこう。
ここで言う「努力を肯定できる世の中」とは
「相手のやっていことを尊重し否定しない心意気」のことでは無い。
心意気~とか、心持ち~、とかそんなファジーで曖昧なことでは断じて無い。
個人々の「やりたいこと」は時にはぶつかり合い矛盾する。
その上で個人々の様々な努力を否定せず、むしろ応援出来る社会…。
「そんな社会は存在しない!」
「快楽殺人鬼はどうする!」
細かい理屈は抜きにして、とても難しいのはよく分かっているつもりだ。
実際にこんな社会目標を複雑怪奇な現在の日本で打ち上げてもまぁ無理だろう。
しかし、仮にそれがとても限定的な環境だったら?
他人を傷つけることではなく、救うことが報酬になるとすれば?
あまり知られていないが、福祉の分野ではすでにそんな試みが行われているのだ。
なぜ福祉なのか?
それは福祉が浮浪者や奴隷といった社会的弱者を対象にしていたからだ。
こういう人々をいざ救おうとしても全然うまく行かなかった、それはそもそも彼らに救われる気が全くなかったからだ。
以前は裕福だったとかならばいざ知らず、もう数世代に渡って社会的弱者をやっていると、自分から立ち上がって何とかしようなんて気はさらさら生まれないのが人間の性なのである。
結果試みられたのが、彼ら自身に問題を意識させ、その境遇を自らの意思で打破することだった。
他人に「お前は大柄なんだから痩せろ」と言われるより「俺はなんて大柄で醜いんだ」と思うほうがはるかにやる気になるという、至極当然の方法である。
※余談ではあるが、この手法は悪用できる。アフガンでCIAが現地ゲリラを育てて内戦を助長したのは有名な話だ。中東のテロ組織でも貧困世帯の若者を教育と金で釣って協力させ、自主的に自爆テロや戦闘を行わせている。
そんなわけで現在の福祉では、援助の必要な人に対して関わりを持つとき必ずアセスメントという手法を用いる。
要は相手の望むこと、やりたいことを明確にするプロセスだ。
「あなたはこの人生で何をしたいのか?」
アンパンマンの歌詞そのものである。
現実にはそんな質問に率直に答えられる人はいないので、相手の人生背景とか、今後どんなことをしたいのかとか、そんなことを聞きながら外堀を埋めていって、最終的に核心に辿り着ければラッキーな感じだ。
大抵はそこに至るまでに援助が終わる場合が多い。
しかし問題はそこではない。ぼんやりとでも自分の道を見つけ、それに出来るだけ近い形で福祉のサービスが提供され本人が満足すればよいからだ。
その人のやりたいことを実現できるかは分からないが、少なくとも目指す努力を肯定し、その実現に向けて周囲が協力することができれば、最悪の人生でもちょっとは楽しく生きて行くことが出来るのじゃないか?
そんな思想がこの方法の根底にある。
これが福祉のライトサイドだとすれば、次に紹介するのはダークサイドである。
「何を考え思おうが、現実に取り得る選択肢は限られている」
「一時の感情に走らず周囲の言うことを聞いて冷静に合理的に考えろ」
まともな人間ならこんなことを言われた経験があるだろうし、言ったこともあるだろう。
悲しいいかな、長年福祉をやってる専門家でもこれを言う人が多いのだ。
確かに相手の言うことを黙って聞いて、従順に生きて行くのは楽だ。
自分を殺して奴隷として楽に生きる道が無いわけではない。
その楽さはMMORPGにハマった身としてはよく分かるのだ!
じゃぁそれが生きる道なのか?
僕自身介護を受けたことはないので正直言って分からない。
映画『マトリックス』とかを見てそんな気になっているだけな面も否めない。
しかし経験からこれだけははっきり言える。
「あなたは認知症で自分で何も決められないから、黙って俺達の言うことを聞いていれば大丈夫」
この意識が虐待や差別を生むのだ。
当事者がやりたいことを、自分の意思でやる・・・
これは当事者の幸せに限った話ではない。
むしろ周囲に与える影響の方がでかいと僕は思うのだ。
発語障害も有り「ア”ー、ア”ー」と正直何を言っているのか分からない。
だがこの人、隣にいる介助者を通してかなり的を得たことをはっきりと言うのだ。
一瞬で「下手なこと言えない」感がその場を支配した。
伝わりにくかったら虎眼先生が正気に戻った瞬間を想像して頂きたい。
後で「ごめんなさい」と言っても恐らく無駄であろう、あの感じである。
相手が乞食だろうが、障害者だろうが、認知症だろうが、虎眼先生だろうが、とりあえずその人の意思がなんなのか、何をやりたいと思っているのかを探る姿勢が潜在的な差別と偏見の芽を摘むことになるのだ。