あたまがいっぱい

猫舌と胃腸虚弱は遺伝のせいなのか

これからの宗教の話をしよう

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今回のもてラジでも宗教とお金についての話があったので、前々回に引き続き宗教について語っていきたいと思う。

ー宗教では見栄や金があかんって誰が決めた!?ー

神社や寺に行くと寄贈者の名前の掘られた像や鳥居が目に飛び込んでくる。それを見て「これってどうなの?」と思う人は意外と多いみたいだ。もてラジパーソナリティーのお二人も同意のようである。

でん六のえび柿の種の衝撃 | ネットラジオ BS@もてもてラジ袋


京都の伏見稲荷大社で見る千本鳥居は人の業で作られた何か - タコの卵

 

確かにそういったいかにも見栄っ張りな物を見ると、何か本来の宗教の意味をないがしろにしているような、どこか不謹慎な感じがするものだ。

あらかじめ僕の宗教に対する信条を述べておくと、僕は宗教を信じる理由は別に何であってもよいと思う。金が欲しくて拝んでもいいし、心の穴を埋めるのでも構わない、哲学的な問であってもよいだろう。宗教は人間が作った道具だと思うし、それを使って人が豊かになるのであればその理由は問うべきではないというのが僕の考えだ。

しかし同時に宗教の趣旨としては、他人の利益を阻害したり、意思に反してその宗教のやり方を他人に強要したり、このようなことを宗教法人という社会的集団であることの人数や法的利点を利用して行うことには反対である。

 そういうわけなので、別に名前の掘られた鳥居が何千本生えていようが僕自身はその宗教を否定したいとかは全然思わない。しかし逆を返せば、見かけ上の見栄っ張りな要素を見ただけで、それが宗教本来の意味とは離れていると断言してしまうのは言い過ぎであるとも思うのだ。

例えばだが、金持ちの年寄りが寺や神社に金出して、それで誰も迷惑にならず本人が楽しければやらせてやればいいんじゃないかと思う。

それで他の檀家が迷惑になるとか、家族が反対するとかそういうのは、寺や神社の側でそれぞれの間に入って調整する責務をしっかりと果たすのであれば、宗教が献金を受ける事自体は否定する必要はないと思う。

※しかし寺や神社ってのは、その金があれば得をする立場にあるわけなので、どんなに公平に立ち回ろうと絶対に陰口を叩かれることからは逃れられないのだが…

ともかく、その宗教を信仰することで楽しく過ごせるのであれば、犯罪や他人の権利を侵さない限り、宗教の主催者側はどんどん助けてやるべきだし、その結果鳥居が数千本立ち並んだとていっこうに構わないッ。

無宗教は文句が言えない!ー

こういうことを言うと結構な確率で「そいう事実があるだけで自分が不快になる!権利を侵害された!」と言う人がでてくる。神社の鳥居で言うなら「寄贈者の書いた鳥居が立っているのを見ただけでムカつく」と言う人達だ。

これだけは言っておきたい。

一体いつから神社が自分の物になったと思っていたのか?

寺だろうが神社だろうが、その宗教を信じる人が行くところなんじゃなかろうか?

恐らく日本人はクリスマスにしろお正月にしろ、日々の行事に宗教が組み込まれた文化の中で生活しているので、特定の宗教へ入信するってことを考えずにいつもの感覚で簡単に宗教に口出しできちゃうんだと思う。

文句があるならばしっかり入信してから言ってもらいたいものだ。

無宗教という宗教ー

入信しなきゃ文句も言えないのか!おかしい!と思う人はいて当然だ。

だが心配は無用だ、安心して欲しい。

僕がそうであるように、誰しもが異なった宗教観があると思う、まぁでもその中でも僕はかなり変わっている方だと思うのだけれど、宗教に対する考え方というのも含めて僕は宗教だと思っている。宗教に必要なのは神でも聖典でも宗教法人の指定でもない。信条なのだ。

だから「キリスト教が嫌い」と言ったらそれは”キリスト教が嫌い教”なのだ、仏教であってもイスラム教であっても同じである。

意識していようが無意識だろうが人間である以上、ある一定の原則に従って生きるように脳みそがそうできている。無宗教でありたいたいという概念は理解できるが、それはかめはめ波が出したいと願うのと同じように絶対に不可能なことなのだ。

つまり寄贈者の書いた鳥居が立っているのを見ただけでムカつくのであればそれは、”寄贈者の書いた鳥居が立っているのを見ただけでムカつく教”なのである。

だからあまり難しく考える必要はない。確かにキリスト教とかユダヤ教とかシンプルに名前が付いていれば見栄えはいいが、そんな必要は全くないのだ。外人に「アナタノシュウキョウハナンデスカ」と聞かれたら胸を張って答えて欲しい。寄贈者の書いた鳥居が立っているのを見ただけでムカつく教だ」と。

ー日本人はなぜ宗教の話題を避けるのか?ー

最後に一つ「なんで日本人は宗教の話を避けるんだろう」と思う人はこれが答えである。つまり、宗教に対して口出しをするってことは自分の信仰を明確にする必要があることで、それは時に衝突を覚悟しなくてはならないことだからだ。

これは推測だが、日本人の宗教観暗黙知として存在し個人があまり意識することのなかったのだと思う。皆がだいたい同じ宗教観で生活しているので、宗教について口出ししたところで、あえてそこで自分の宗教が何であるかを主張する必要がなかったのだ。しかし近代に入って「無宗教」という概念が入ってきたことにより、そもそも希薄だった個人の宗教観が生活の個人化も相まって無宗教に置き換わってしまってたのだと思う。

もしあなたが現代の日本人で、自分のやりたいことに正直に生きていきたいと思うのであれば、先ずは自分の宗教をはっきりと言えるようにしてはどうだろうか?